水野家族法学を読む(30)「離婚/離婚訴訟に関する法的規整を考える(1)」

今週から、2022年2月号で紹介された参考文献のうち、判例タイムズに掲載された、瀬木裁判官との対談を数回に分けて紹介していきます。
foresight1974 2022.06.26
誰でも

【前回】

こんにちは。
当地も本日、35度を指しましたが、梅雨はどこへ行ったんでしょうか???

***

対談

今週は、日本の離婚法の問題点を網羅的に取り上げた、この論考をご紹介します。

これは、後に「絶望の裁判所」(講談社現代新書)で有名となった裁判官・瀬木比呂志氏と水野先生が判例タイムズの企画で対談したもので、水野先生のHPに全文が紹介されています。

内容は非常に離婚訴訟の法的問題を網羅的に取り上げて水野先生の見方が全面的に紹介されているのですが、量が多いため、数回に分けてご紹介します。

<参考文献>
対談「離婚訴訟、離婚に関する法的規整の現状と問題点」判例タイムズ1087号4-39頁(2002年)

離婚訴訟は気が重い

「法学教室」連載記事で紹介された瀬木裁判官の発言は、対談の最初に出てきます。

<瀬木>

それで離婚訴訟ですが、私は地裁を中心に民事をずっとやってきた、かなり典型的な地裁民事型の裁判官ですけれども、離婚訴訟については、通常の民事訴訟とは大分感覚が異なっていて、審理のガイドラインが見えにくくてやりにくいなという感じを、以前から薄々持っておりました。これは、ほかの裁判官にきいても同じようなことをおっしゃる方が多いわけです。地裁の離婚訴訟の段階では、現実には婚姻はほとんど破綻の状態になっていて、憎しみの応酬になりやすい、ちょっと気の重い訴訟ということもあります。
それから、後にも話が出るかと思いますが、離婚訴訟に関する条文が、非常に重要な条文なのですけれども、十分にその解釈が詰められてこなかったことから、離婚を規整する法のあり方や思想をつかむこと自体が難しいということが、あったように思います。

これに応じて、水野先生は、この前年の秋、日本家族〈社会と法〉学会において「子の奪い合い紛争の法的解決」をテーマとしたことを紹介されています。以前のニュースレターにて紹介しましたが、水野先生が、離婚後共同親権の導入案を検討し始めたのは、この前後の時期です。
そして、こう問題を提起します。

<水野>

日本の離婚訴訟の構造と、それから協議離婚、調停離婚、離婚訴訟という離婚法の全体構造について、私は従来、批判的な立場で論文を書いてまいりました。現実には完全に破綻した者の間で、どうして憎しみの応酬になる消耗のある離婚訴訟をしなくてはならないのか、疑問を感じております。

離婚訴訟に関する水野説の要旨

続いて、離婚訴訟に関する水野先生のお考えを簡潔にまとめられます。

<水野説>

① 圧倒的に少数の離婚訴訟
 離婚訴訟が全離婚数の全体のわずか1%の存在であるということが、離婚訴訟を歪にしている。すべてが離婚訴訟となる西欧法と異なり、合意で成立する99%の協議離婚をにらみながら、わずか1パーセントの離婚訴訟がそれらの離婚に対する意味を考えながら形成されてきたことが、日本の離婚訴訟の構造を歪めてきた。

② 消極的破綻主義の弊害
 昭和20年代の終わりに最高裁で確立された消極的破綻主義は、現在では、その意義よりも弊害のほう大きい。離婚を求めるのは妻のほうが多数派ですが、合意が成立しないと裁判離婚にいかざるをえず、その障害ゆえに離婚をあきらめるケースも多く、認められてしかるべき「離婚する権利」が守られていない。

③ 離婚訴訟の予測不可能性
 裁判離婚の場で有責性の争点も限定されず、それこそ婚約時代から現在に至るまでのあらゆる事項が事実認定の対象となり、その事実認定の対象をめぐって訴訟で果てしなく争う離婚訴訟の弊害。
 770条1項5号、同条2項といった裁量の広い規定も予測不可能性を大きくしている。

その背景にある日本人のメンタリティについて、水野先生は次のように述べます。

これらの判例や立法のありかたを考えてみますと、日本人の求めている裁判に対するイメージが、その背景にずっと底流として流れているような気がします。裁判官に、ともかく自分の訴えを話して、そしてどちらが正しかったかということを裁いてもらいたい、情理と知識とを兼ね備えた上位の第三者である裁判官に、不当な行為をした相手方を罰してもらいたいという、昔の土着的な裁判イメージが、離婚訴訟の条文や消極的破綻主義の背景に流れているのではないかと感じます。それは必ずしも民事訴訟、離婚訴訟という枠組みの中には相応しくないある種の土着の幻想の感覚だったのではないか、それが離婚訴訟を公開の法廷でプライバシーを果てしなく暴くという歪なものにしてきたのではないかと思います。

そして、水野先生はあるべき姿を次のように提示します。

離婚の法的な規制のあり方としては、明確で具体的な基準を与えてスタンダードを示すことによるべきではないでしょうか。すべての離婚に適用される共通の基準を与えて、離婚事件の公平な結論というものを図っていく、それが離婚法のあるべき姿ではないかと私は考えております。

瀬木裁判官の水野説評価

これに対し、瀬木裁判官がいくつか疑問・反論を提示します。

<瀬木>

① 離婚訴訟の短縮化
 瀬木裁判官は、この対談で準備したレジュメにおいて、自身が担当した10数件の判例分析の中で、最長で2年ほど、平均して1年程度であることが述べられており、水野先生が指摘した離婚裁判の長期化のイメージを修正しています。

② 有責性
 高齢の弁護士でこだわる傾向があったようですが、「中堅以下の年代の弁護士はおおむね淡々と解決を探っているという印象」であることが述べられています。

③ 当事者主義
 瀬木裁判官は、離婚手続のフェアネスについて、「証拠裁判主義と手続的フェアネスは離婚訴訟でも機能している」と評価されます。

その背景として、瀬木裁判官は、

・新民事訴訟法(1996年制定)による争点整理・迅速審理が定着化したこと
・制限的ながら積極的破綻主義を認めた最大判昭和62年9月2日民集41巻6号1423頁

を挙げています。そして、水野先生の見解に次のように反論します。

④ 770条2項の理解
 770条1項1号~4号の例外であるが、現在の実務では、裁量棄却が適用される事案がほとんどない。実務は適用に慎重といえる。

⑤ 770条1項5号の理解
 瀬木裁判官は、④の理解を前提として、消極的破綻主義は5号の内在的制約である、つまり、5号自体は破綻主義を定めたように読めるけれども、実際には内在的制約があり、有責配偶者の離婚請求を許さないという一般的理解を提示します。
 しかし、水野先生は、これは実質的には一種の裁量棄却であり、2項の類推という形で初めて成り立ちうるのでは、と疑問を投げかけます。

これに対し、水野先生が770条1項5号について説明します。

<水野>

  七七〇条の解釈論は、ご承知のように多岐に分かれています。判例の文言がそのまま法理として確立していて、条文との関係についての解釈論はあまり積極的には論じられていません。我妻説も中川説も理解が違っていましたし、民事訴訟法学からの議論もありましたが、その後、それらの対立が詰められてきたわけでもありません。学説の状況についてはなんともいいにくいので、五号の内在的制約という解釈のほうが、立法趣旨にも近く、学説としても一般的かもしれません。
 ただあくまでも私の解釈ですが、五号の文言の内在的制約と読むのは限界があるだろう、長期の破綻状態になると五号の事由はあるけれども、実質的には裁量棄却だと考える方が条文そのものの読み方としては自然かなと思います。要するに、私は、事由を「相対化」する読み方に批判的なので、それくらいなら二項の類推の裁量棄却と正面からいうほうが正直でいいと思うのでしょうね。  

瀬木裁判官もこれに同意します。

<瀬木>

 なるほど、そういうふうに言われてみると、消極的破綻主義は実質は裁量棄却主義であるという水野説の意味がわかります。確かに、七七〇条一項五号自体は、一見破綻主義の条文と読めるような文言になっていて限定がないわけですから、もしも二項がなければ、これに大きな限定を加える解釈は採りにくいですね。

裁判官の裁量をめぐって

その後、民法770条をめぐる立法の経緯に触れた後、瀬木裁判官が「裁量性」の議論に踏み込んでいきます。

<瀬木>

裁量性のある条文のほうがやりやすいかというと、地裁の民事訴訟という観点から見れば、むしろやりにくいのですね。当事者を導いてゆく、審理の方向を付けてゆくガイドラインがはっきりしないので、法的な主張立証の枠を踏み越えて無限定に争点を広げてゆこうとする当事者がいても、それを規制できないからです。「これも、あれも聞くべきだ。それが裁判官の仕事ではないか」と言われてしまうし、相手方当事者も、おかしいと思っても、文句が言いにくくなってしまうのです。
下級審の裁判官が判例を発展させていく、下級審の判例による法形成機能というのは、財産法や訴訟法の分野では、現在では網の目のように細かく張りめぐらされている最高裁の判例の間を縫って、その筋道をたどりながら、それでいいと思われればそのまま従い、そこで一歩踏み込んだほうがいいと思えば、あるいは穴になっていると思われる部分があれば、踏み込むか事実を区別して新たな判断をする、その場合にはその根拠を述べるという形で判例が発展していく。私自身の経験でも、雑誌に掲載されたり、比較的地味な論点なのに大きく報道されたりするものは、やはりそういうふうに自覚的に踏み込んだものなのです。
ところが、離婚訴訟は切り口が大きいのでやりにくい。例えば有責的破綻主義の限定といっても、メルクマールはかなりゆるやかなのですね。それを下級審で限定していこうと思っても、元々の切り口が長期の別居期間という相対的な概念であり、そして、別居期間が相当の長期間といえるか否かを判断するに当たっては有責配偶者の責任の態様、程度等諸般の事情を考慮するということなので、なかなか判例が形になって蓄積してゆきにくいのです。

そして、水野先生の見方を否定します。

水野さんが裁判官の裁量とおっしゃるときに、水野さんのイメージの中では、裁判官が非常に自由に、場合によっては恣意的に決めることができるのだというふうにお考えになっているのかと感じるのですが、それはおそらく、そうではないのですね。
例えば、ここで挙げた事例三でいきますと、まさに有責配偶者の離婚請求が認められるか認められないかぎりぎりの事案なのですけれども、この判決を書くときには、まず、さっきの昭和六二年判例以降の判例をずっと追って、別居期間というものについてどの程度のところで線が引かれているか、これを調べる。それから有責性というものについて、どういう評価をしていて、一見方向性の異なる判例の中でどの判例がオーソドックスなものと読めるのかということを、十数の判例をコピーしまして、それを詳しく読み込んで、その上で自分の判断の基準を作って判断しているのです。

そして、瀬木裁判官は、「そういう意味ではかなり厳密に、むしろもっと細かい解釈論や判例が存在する分野よりもずっと苦労して判断をしている」と述べています。

この見方に対し、水野先生が反論します。

<水野>

ただその個人的努力の結果で見出されたメルクマールは、すべての裁判官が同じように共有するものとは到底いえませんでしょう? 高裁の判事が、最近の若い地裁の判事は保守的で有責配偶者の請求を棄却するのが目立つ、時代が逆行しているとぼやいたりするそうですから(梶村太市・戸籍時報五三四号二四頁)。

そして、水野先生自身は、瀬木裁判官の姿勢を評価し共感を示すものの、家族法の白地規定性を批判する水野説は多数説ではないとして、次のように述べます。

「メルクマールを切り出すのではなく、大きく一つ信義則という柱を立てたに過ぎないと読み、メルクマールの文言はその柱の中に混ぜてしまって、信義則に適うような形の離婚の判決を書けという趣旨なのだと読む読み方も、これは強固にある」「あの判決が絶えず信義則に言及しているのは、メルクマールをたてて離婚請求を認めることの正当化の理由に過ぎないと私は考えますが、その信義則の部分自体が全体を被う一つの大きなメルクマールなのだという読み方をする学者が、有力な一流学者にも少なくありません。」

そして、多数説を次のように評価します。

裁量性と言いますか、やはり裁判官が信義則によって一番妥当な結論を出してくれるだろうという信頼なのだと思います。家族法の一番根幹の領域の離婚訴訟ですから、それを一定の、例えば別居期間のような年月で切ってしまうということに対しては、それでは不当な不正義が行われてしまうのではないかという危惧があるのでしょうね。それを信義則という大きな枠をかけておけば、信義則によって必ず正義は行われるものであるという感覚なのではないかと思います。

そして、瀬木裁判官の判決文を次のように批判します。

瀬木さんに事前にお送りいただいた離婚判決を読みながら、こういうものを読んでいたら、信義則で裁判官に委ねてしまえば大丈夫だという感想を実体法学者が抱くのも無理はないかなとも思ったのです。瀬木判決は、非常に説得力のある文章が書かれていて、そしてそれはひとつの物語の構築ではあるのですが、でも、結論に向かって一瀉千里にその結論しかないという物語が書かれてあり、こういう判断をしてもらえるのであれば、それでいいじゃないかと思う学者はおそらくたくさんいるでしょう。さらに、当事者自身も自分たちの結婚生活を総括してくれる、まさにこういう離婚判決を求めてくるという現実もあるのだろうとも思います。
でも瀬木裁判官の法廷に来なかった当事者は、同じ判決を書いてもらえる保障があるでしょうか。法の公平性は、どの法廷でも同じ結論が得られることだと思います。それから、私は素晴らしい瀬木判決を十幾つも拝読しながらも、へそ曲がりなものですから、これは非常に説得力のある物語であり判決であるけれども、果たして本当の物語なのかしらとも思うのです。

(この連載つづく)

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