水野家族法学を読む(26)「"自分の名前"で生きる権利を考える」

選択的夫婦別姓問題で、自民党・日本維新の会を中心に根強く唱えられる「通称の法的使用権」。それはそんなに単純な問題なのか。水野先生の論考から問う。
foresight1974 2022.05.28
誰でも

おはようございます。
今週号は、2021年12月号「法学教室」に掲載記事の、選択的夫婦別姓について取り上げますが、実は、すでにnoteに掲載しております。

<参考文献①>
水野紀子「日本家族法を考える 第8回 夫婦の氏を考える」法学教室495号(2021年12月)(有斐閣)86-92頁

そして、これ以前の論考については、当連載にて、昨年6月に既に取り上げています。

<参照文献②>
水野紀子「夫婦の氏」戸籍時報428号(1993年)6頁
http://www.law.tohoku.ac.jp/~parenoir/uji.html

<参照文献③>
水野紀子「夫婦同氏を定める民法750条についての憲法13条、14条1項、24条の適合性」家庭の法と裁判6号(2016年)15頁以下

詳細は、上記記事に譲ることにして、今回は、この判例評釈を取り上げたいと思います。

<参照文献④>
水野紀子「夫婦別姓訴訟ー氏名権妨害排除等の請求」東京地裁平成5年11月19日判決評釈
私法判例リマークス10号76-80頁(1995年)

東京地判平成5年11月19日判時1486号21頁

<事案>
Xは国立大学女性教授。
~昭和57年3月 岐阜教育大学助教授。
昭和57年4月 図書館情報大学助教授に就任。(本件就任)
昭和60年 同大学教授に昇任。
一方で、昭和41年に婚姻し、自身の氏「関口」から夫の氏である「渡邊」に改氏。
しかし、婚姻後も日常生活、研究活動、論文発表等において自己の氏名を「関口」と表示してきた。
Xは本件就任以来、「関口」姓による研究教育活動をおこなう希望を申し入れてきたが、大学側は戸籍名「渡邊」の使用を要求。大学側は取扱文書の中で、通称使用の権利を認めたのは論文発表等の一部のみであり、大半は戸籍名での使用を要求していた。
Xは氏名権に基づく妨害排除請求等を求めて、大学側の戸籍名使用の差止めと損害賠償を求めて提訴。

<主文>
差止め請求却下。損害賠償請求は棄却。

<判旨>
① 国家公務員の任用関係においては、公務員の同一性を把握することが不可欠である。
② 夫婦が同じ氏を称することは、主観的には夫婦の一体感を高める場合があることは否定できない。また、客観的に夫婦である事実を示すことも容易である。夫婦同氏を定める民法750条は合理性を有し、何ら憲法に違反しない。
③ 個人の同一性を識別するために、戸籍名で取り扱うことは極めて合理的。
④ 他方、研究活動では「関口」姓の使用は認められており、配慮されている。
⑤ 婚姻届を提出したことは、原告自身が、「関口」姓が通称として使用することを意図したもの。
⑥ 通称の使用は、長期間にわたり国民生活に基本的なものとして根付いておらず、未だ普遍的とはいえない。

選択的夫婦別姓への啓蒙

近年、選択的夫婦別姓への理解・賛同が、その流れを覆せないほどに広がっている背景には、地方議会に賛同決議を働きかける「選択的夫婦別姓・全国陳情アクション」をはじめとする、粘り強い市民運動と、果敢に戦われてきた2度の違憲訴訟があることは、疑いない事実といえるでしょう。

しかしながら、こうした世論喚起も考慮した訴訟は以前にもあり、1980年代後半に相次いで起こされています。この訴訟はその1つです。

水野先生は冒頭、次のような言葉でその労苦を慮った言葉を綴っています。

Xが図情大に就任した昭和57年当時は、現行民法750条の夫婦同氏制に対する批判も今日のように広く共有されていたわけではなかった。Xと同様に、氏の強制的変更の結果、研究教育活動に支障を来す多くの女性学者は、戸籍名をなのることを甘受するか仮装離婚をするかの選択を迫られ、Xのように通称として旧姓を使用し続けようとすると、戸籍名が通称の領域へ侵入してくることに対抗して日常的に闘争しなければならず、その努力への周囲の理解もなかなか得られなかった頃である。現行民法の夫婦同氏制に対する批判が、短期間のうちに法制審議会における立法の動きにまで高まった時の経過の流れのなかで、本件の裁判が、一定の啓蒙的な役割を果たしたことは、否定できないであろう。
<参考文献④>P.77

そして、本判決の判旨を舌鋒鋭く、徹底的に、そして痛烈に批判していきます。

配慮は一体どこにあったのか

まず、公務員の同一性把握という判旨に照準を合わせて、集中砲火を浴びせます。

本判決の判旨B部分における「本件取扱文書に定める基準」の評価はまったく疑問である。通称名でできるとされたのは、「1 研究活動及びそれに伴う研究成果の公表物(研究報告、著書、論文等)並びに公開講座のポスター及び講義要旨、ただし、印刷伺いの原議書は「渡邊禮子(関口礼子)とする)(以下同じ)。2 学内で発行する刊行物で本人が寄稿する論文等、3 その他、上記に準じて取り扱って差し支えない書類」とされるものであるが、要するにこれらは、論文発表に限られると理解してよい。研究活動については、論文発表のみならず、科学研究費関係の書類名をはじめ研究活動に不可欠な一連の分野があり、そこでの通称名使用は妨害されている。論文発表については、これは最低限のものでありそもそも制約しようのないものであることは、「司馬遼太郎」が本名の「福田定一」での執筆を強制されることがあり得ないのと同様である。「教育活動」については、「「関口礼子」を表示することができるようにも配慮されたもの」ということは到底できず、むしろこの趣旨のすべての「配慮」が完全に排除されているといえるであろう。授業時間割及び学生マニュアル(授業概要)等に戸籍名で記載されることについて、判旨は、本人が「学生らに対し、年度当初の授業の都度、自己の氏名が授業時間割に表示されるものとは異なり、研究、教育活動上、氏名を通称名で表示していることを説明すれば」よいというのであるが、事務職員が授業時間における本人の口頭での説明を妨害しないことが「配慮」であるとでもいうのであろうか。
同P.78

水野先生は、大学側の態度があまりに硬直的であり、他大における取り扱いよりも厳しかったのではないかと指摘しつつ、研究活動と密接に関係のある書類、また授業の実施にかかわる事項について、通称名を使用することが事務上とりたてての支障があるとは考えられず、それらの通称使用に協力することは、むしろ大学側の責務だと主張します。

そして、返す刀で再び裁判所の姿勢に照準を定めます。

リップサービス

本判決は、通称名について法的保護の対象たる名称となる可能性を有することは認めつつも、通称使用権に権利としての普遍性を否定しています。

水野先生は次のように「可能性」なるものが、単なるリップサービスであると喝破します。

本名に関する氏名権は、すべの人が潜在的に侵される可能性を持つが、通称に関する氏名権は、所詮、少数者の権利にとどまる。とりわけ民法750条が存在して改氏を肯定的に受容する女性も多く、それに不満を持つ女性であっても、旧姓使用はXのような苦闘を伴う限りなく困難なことである以上、旧姓が通称名であることが、「普遍的なもの」となる事態は、およそありえないであろう。しかし少なくともX個人にとっては、「個人の名称として長期間にわたり」「基本的なものとして根付いているもの」であったのであり、Xには「人格的生存に不可欠なもの」と思われる氏名であったのである。このような氏名を守ることこそが、通称名の権利を守ることである。日本人既婚女性が「普遍的」に旧姓を通称名とするまでは、旧姓の通称名は氏名権としての保護を受けないという趣旨であるならば、それはまったく権利として認めていないことと同義である。このように明瞭に矛盾する文章を結びつける本判決には、人格権という概念や人格権がまず少数者の権利を守ることであることの意味が、そもそも理解されていないとしか思われない。
同P.78~79
たしかに大勢の公務員を抱えた組織が、事務処理上、とりわけコンピューターによって一括的な事務処理が行われるようにになってからは、特定の個人について二重の氏名を使い分けることに、煩雑さや困難があり、本人が望むからといってその使い分けを必ずしなければならないことは、難しいかもしれない。しかし、むしろ使い分けでなく、通称名のみで扱われるとすれば、この困難は回避される。本件においてもXの希望は、通称名のみで扱われることであった。要するに、通称名がその本人のものであると特定できればよいのであり、通称名が気ままに変わることのない安定的な根拠のあるものであれば、十分公務員としての同一性の把握は行われうるのである。
同P.79

そして、本判決が強調するような本人の同一性についても、個人番号制度のようなもので代用しうるとし、この役割を絶対視する裁判所に疑問を投げかけています。

人の氏名は存在そのもの

判例評釈の後半、憲法論の部分で水野先生は、アメリカ連邦控訴裁判所の判決で述べられた少数意見の一節を、次のように紹介しています(HENNE v. WREIGHT,904 F.2d 1208(8th Cir.1990))。

「人の氏名は、ある意味で、その人のアイデンティティであり、人格であり、存在そのものである。・・・氏名には、ある神聖なものがある。それは我々自身のことであって、政府の干渉することではないのである(It is out own business, not the government's)。」
同P.80

水野先生は、欧米流の氏に関する人権感覚について、国の伝統が影響することが大きいことも認めておられ、ストレートに日本への援用は消極的であるものの、次のように述べます。

それにしても、本判決の合憲論の躊躇のなさは、すでにこれだけ人格権としての氏名権の理解が一般化している中で、現在においても、極端に一方的な表現であるように思われる。民法750条に対するこの躊躇のない肯定が、改氏を強制された結果としてのXの通称名使用に対する、本判決の仮借のない切り捨ての論理的前提をなしているのであろう。おそらく10年先を読み返されたときに、本判決の人権問題における視野の狭さと社会の変化への鈍感さは、誰の目にも顕著な違和感をもって映るものと思われる。外国人について氏名を正確に呼称される利益の権利性というおそらく比較法的にも禮のない権利を認めたNHK日本語読み訴訟の最高裁判決は、創氏改名の不幸な歴史ゆえに人権としての氏名権に敏感にならざるを得なかったためであろう。比較法的にも突出した強制性となっている民法750条に関する本判決が、この最高裁判決とあまりにも対照的であるといわざるをえない。
同上

以前の連載記事や、<参考文献②>で述べられているように、水野先生は、氏を「個人が自らの名としてなのりたい氏を尊重する氏の捉え方(氏の人格権的機能)」を重視し、それを絶対視するわけではないものの、氏が家族秩序維持機能として把握するには弊害が大きく、民法750条を立法論的には廃止・改正されるべきであるとされています。ただ、それは本判例評釈でも述べておられるように、あくまで「立法権の判断」であって、憲法判断ではありません。

しかしながら、一方で、氏の人格権的機能は少数者が切実に希求する、人格的生存に不可欠な法的権利であって、弊害がない限りこれを尊重すべきであるという水野先生の論理からは、アメリカ連邦最高裁判所がしばしば用いるLRA(Less Restrictive Alternatives:より制限的でない他に選びうる手段)という違憲審査基準が、論理的な発展可能性として示されるように思われます。

(この連載続く)

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