水野家族法学を読む(12)「家族法論・家族観を問い直す」

「法学教室」2021年6月号で水野先生が分類された家族法論・家族観について、もう少し詳しく、水野先生の論文から読み解いていきます。
foresight1974 2021.06.29
誰でも

こんばんは。

先週の最高裁判決については、さすがにへこみました。
まるで進歩がない。

が、ニュースレターの良いところは、
筆者がへこんでいようが容赦なく配信日がやってくることで、
強引にでも書かなくてはならない。

かつてサッカー日本代表監督だったイビチャ・オシム氏が、ジェフユナイテッド千葉監督時代、試合に負けた後のインタビューで、よく「それでも人生は続くけどね」と答えていたことを思い出します。

あの諦観が今の僕には必要です。

***

話を「法学教室」2021年6月号に戻します。

水野先生は、「家族法論・家族観の対立」と題された項目で、星野英一博士と、大村敦志東京大学教授の分類を引用して、ご自身の家族観・家族法観を明らかにされています。

(2021.6.1ニュースレターより)

  【星野英一の家族法論の分類】
①一般の人々の間にかなり存在して(残って)いるとみられる、古くからの家意識
②戦後の民法学者の多数が採る、啓蒙主義的家族法観
③最近のいわば「新しい」家族法観
④明治以来十分に理解されないままできた西欧の家族法・家族観を見直し、それと意識的・無意識的に存在する家族法観とを対比して、今後の家族法を考える基礎を確立するもの  

【大村敦志の家族観の分類】
①少なくともいったんは家族を個に解体する立場(ポストモダン)
②未だ実現されていない夫婦家族を改めて意識的に引き受けようとする立場(プロトモダン)
③「「日本的福祉社会」を支える家族の役割を再評価しようという立場(アンチモダン)

【水野先生の立場】

...民法学者であれば、この分析に家族法学者の固有名詞を宛てることは、それほど難しくはない。他の名前はともかくとして、星野の第四の立場と、大村の「プロトモダン」が、私の立ち位置であろう。ただしこの立ち位置は、事実婚や同性婚を含む多元的な家族の存在を否定するものではない。私は、むしろ当事者の選択を重視するが故に、法律婚の効果を重視するものである。たしかに女性たちが引き受けているケアの無償労働や男性から女性への暴力の実態は、多方面で是正されるべき課題であり、とりわけ暴力の問題は婚姻の有無にかかわらず介入が必要である。しかし同時に国家権力の介入は、個人の自由の領域との緊張関係を伴う。国家権力は、婚姻という制度を選択したカップルにおいてはじめて、婚姻法に基づいて介入することが可能となる。事実婚に対しては、子が生まれたときにはじめて、子のために親子法と親権法を通じて国家が介入する余地が生じる。婚姻意思を持たない事実婚カップルに婚姻法を準用して適用するという内縁準婚理論は、西欧法の基準では国家権力が自由の領域を侵す非常識なものと評価されるだろう。婚姻制度もまた、自由という理念に対する制度的保障のひとつの現れなのである。
水野紀子「日本家族法を考える 第3回 家族観と親族を考える」法学教室2021年6月号 P.109~110(有斐閣)

この水野先生の主張は、一見だいぶ難解です。
というのも、一般的な民法の理解とは異なる前提に立たれているからです。

前々回のニュースレターにて紹介された、中川理論の発想は、法律婚の効果を、事実婚やほかの家族形態にもできるだけ及ぼすこと(それを準用、類推適用、内縁準婚理論と呼ぶかどうか別として)を考えるものでした。
これに対し、私見ですが、水野先生の発想は、次のような3つの前提に立たれているのです。

①家族法は、本来、家族への公的介入を保障する法律である。
②公的介入は、法的正義の体系である実定法上の根拠に基づいて行われる必要があり、これによって、本来個人の自由な領域である家族の私的関係への公的介入が正当化される。(実定法上の整合性と乖離した中川理論を否定)
③反対にいうと、実定法上の根拠に基づかない公的介入は、本来、個人の自由であるべき家族の私的関係に対する、国家の不当介入となり、正当化されない。

この発想がより明確にみられるのが、次の水野先生の論文です。

<参考文献>
水野紀子「日本家族法―フランス法の視点からー」早稲田大学比較法研究所編・早稲田大学比較法研究所叢書41『日本法の中の外国法―基本法の比較法的考察ー』成文堂99~134頁

ここでは、冒頭にご紹介した星野英一の家族法論の四分類を紹介したうえで、中川・星野らによって位置付けられた②啓蒙主義的家族観は、中川理論の問題を指摘し、「プロトモダンの学説としても適切であったとはいいがたい」と批判しています。

そして、③「新しい」家族観についても、水野先生は、民法が設定する婚姻家族の機能の不平等さ(例:民法750条)から事実婚を推奨していることを次のように批判されます。「事実婚であれば男女平等な夫婦関係が保障されるわけではない。かりに事実婚家族が事実上男女平等な夫婦関係を実践できていたとしても、それは妻が常勤労働者で経済力がある場合や夫婦別氏を実践するような平等意識を持つ夫である場合であるからではなかろうか。事実婚家族が婚姻家族にはない夫婦平等を確保できるのは、夫婦がそれぞれの氏を維持できるという一点のみである。」

そして、重要な指摘が出ます。

「夫婦同氏制度が憲法違反という批判を免れてきたことも、日本の憲法論の特徴であったかもしれない」

若い学生さんや法律家の方、最近になって選択的夫婦別姓制度にご関心を持たれた方は驚かれるでしょうが、長らく、日本の憲法学説では、民法750条が憲法違反だとする見解は少数説だったのです。

そして、日本国憲法とこれに連動する家族法学の難点を次のように指摘します。

かつてマルクスが「憲法のどの条文にも、自分自身のうちにそれ自身の反対命題、それ自身の上院と下院を、つまり一般的な決まり文句の中には自由を、傍注の中には自由の廃止を、含んでいるのである」と言ったように、憲法の大文字の正義は、そのうちに反対命題を含まざるをえない。また憲法の複数の理念には構造的に相互矛盾が存在しうるのであって、たとえば自由と平等の両立が難しい場面は少なくない。さらに自由と平等という理念を比較して、基本的人権の尊重という要請は、日本の家族法学においてはあまり主張されてこなかった。日本においては、家族法領域に対する憲法の働きかけは、もっぱら矛盾と限界を自覚しない自由と平等の形式的な適用が多かったように思われる。実質的な自由が存在しない場面で、合意の自由が正当化根拠となり、形式的な平等が、経済的弱者から実質的な平等を奪っても問題にされなかった。つまり国家が私人間、とりわけ家族間に介入することによって、基本的人権を守る義務があるという憲法的要請が前面に出ることはなかったのである。
前掲論文P.102~103

水野先生は、鈴木禄弥を批判しながら、民法は「狭い商品交換法ではなく、人類が共存するための基礎となる、社会の基本法であるのではなかろうか。そして、家族間の権利義務を定める家族法は、財産法と同程度には、民法という基本法の根幹をなすものであろう。」としています。

そして、このように述べています。

人の法の基本を規律する民法は、個人の自律の支援について、育児環境について、家族への介入について、また相続秩序について、多元的な価値や法益の調和をとる法典である。「これらの価値のかかえる還元できないアンビバレンスを考えれば、これらの価値こそ、法に調和を保つよう強いているものである。その調和とは、知の要求するもので満たされた豊かなあらゆる内容と、自由との共存という調和である」(フランソワ・テレ)のだから。
前掲論文P.131

以前、ニュースレターの中で、水野先生は、家族法の魅力についてこう語っていたことをご紹介しています。

当時から、自由や平等という短い言葉による正義よりは、具体的な問題に取り組んで、より確実に権利と法益を守る民法の方に魅力を感じていました。複雑さに耐えて思考し続ける大人の学問だと思ったのです。
(東北大学新聞2019年9月16日より)

中川理論に代表されるような「グランドセオリー」にたよることなく、多元的な価値観の調和を図りつつ、個別の問題の特性に応じ、必要に応じて公的介入を実施する。

それが、水野先生の家族法観のように私は受け止めています。

(この連載続く)

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