水野家族法学を読む(10)「身分行為論はなぜ問い直される必要があったのか(前編)」

今や教科書の片隅にささやかに記述されるだけの身分行為論。
大幅な紙数を割いた水野先生は、いったい何を伝えたかったのだろうか。
foresight1974 2021.06.08
誰でも

おはようございます。

大変に鬱陶しい季節になりましたが、雨上がりの緑が鮮やか目に沁みますね。

***

【前記事】

前回記事でもご紹介したように、水野先生は、今月号の「法学教室」連載記事の中で、中川善之助の身分行為論について、かなりの紙数を割いて紹介しています。

実は、身分行為論といわれても、現在の法学教育では、ほとんど取り上げられることはないと思います。身分行為論は親族・相続法の授業の冒頭で1回触れられるだけであり、学生向けの解説書の中には、そもそも中川善之助という名前自体が登場しないものも多くあります。

学術上も、中川がこの世を去って40年以上経過し、今では採用する学者もほとんどいないと思われますが、なぜ、水野先生はこだわったのか。

一部、前回ニュースレターと重複しますが、改めて説明したいと思います。

身分行為とは

<定義>
身分行為とは、身分上の法律効果を発生させる法律行為(例えば婚姻の意思表示)をいいます。

<特色>
一般的には、次の3つを特色とします。
(1)要式性
後述する形成的身分行為については、原則戸籍法上の届出を要する(創設的届出)を必要とする、という特色があります。
(2)身分行為の能力
身分行為には、財産的法律行為の場合ほど高度の能力は要求されません。
(3)身分行為の意思
身分行為においてはなるべく本人の意思が尊重され、民法総則の94条2項、96条3項といった第三者保護規定の修正は受けないとされます。

<種類>
(1) 形成的身分行為
 直接的に身分の創設・廃止・変更に向けられた法律行為(例:婚姻,養子縁組,離婚,離縁,子の認知など)
(2) 支配的身分行為
 自己の身分に基づいて他人の身上に身分法的支配をなす行為。身分よりの行為ともいう(例:子の法律行為に関する親権者の同意行為や代理行為など)
(3) 附随的身分行為
 身分行為に附随した行為(例:夫婦財産契約,夫婦の氏を決定する行為,相続の限定承認や放棄など)

<主張のポイント>
①意思能力があれば足りる(個人の意思の尊重)
②民法総則の93条・94条・95条などが適用されない
③法律効果に向けられた意思ではなく、社会習俗ないし社会観念上の意思(実質的意思)を問題とすべき
④民法総則は財産法総則であって身分法(親族法・相続法)には適用がない

身分行為論の背景

問題は、なぜこのような理論を必要としたのか、です。
水野先生は次のように述べます。

きっかけになったのは、離婚無効に総則の規定が適用されないという解釈論の必要性であった。離婚無効は、すべてが裁判離婚である母法においては、まず問題にならない法的構成である。しかし届出だけで成立する日本の協議離婚においては、当事者の意思を無視して離婚届がなされることが少なくなく、その実態に対応するため、離婚無効という法的構成が、しばしば必要となる。民法総則は財産法にしか適用されず、身分法領域は異なる原理で運用されるという解釈によって、離婚無効にふさわしい解釈論を立てようとした中川が、身分行為論を構築した。この理論を用いて、中川は、主として弱い立場の女性を守るために、明治民法の規定する家制度を解釈学によって換骨奪胎しようとした。
水野紀子「日本家族法を考える 第3回 家族観と親族を考える」(法学教室2021年6月号 P.107~108 有斐閣)

そこで、中川は次のように考えました。
「身分関係が人間性質の自然に流露した本質結合であり、身分行為における意思が感情の外にこれと対立せず、むしろその内に在って感情するがままに意思するというような意思」であり、「形成的身分行為は、財産法的な意味でいえば、常に宣言的であって創設的ではない」。
そして、次のように述べます。

売買関係は売買契約そのものによって法律上も事実上も初めて創設されるのだから、その売買契約が成立しない限り、売買関係は徹頭徹尾「無」であって、何物の残る余地もないのであるが、婚姻の場合は、事実上の婚姻がありながら、ただその宣言行為たる婚姻締結行為だけが不成立の場合と、婚姻の事実がなくて婚姻締結行為があるために無効とされる場合とでは、その無効の性質に非常な違いを生んでくる。婚姻的事実のない場合には完全に「無」でだる。しかしその事実があって婚姻締結行為が欠けているという場合には「無」ではない。法律的に完全な「有」がないというだけである。換言すれば在るものの宣言がなされていないというだけである。実態は存在すると考えねばならない。身分行為は単なる宣言的行為だからである。
中川善之助「親族法」青林書院 P.29

この身分行為を支えるのが、水野先生が「法学教室」連載記事でご紹介された「事実主義のテーゼ」です。

①婚姻の意思の合致、②届出という事実が存在しなくても、婚姻状態という事実があれば、「身分法の世界においては、存在するもののみが法律的であり、法律的なるものは必ず存在する」と言ってのけたのです。
中川は前掲書の中で、次のように説明します。

仮に近松的な恋愛と結婚と想像して見ると、意思と感情のとの関係は違って来る。恋愛の情を意思の力で批判し計算するのではなく、感情がその実現のために意思を働かせるのである。これが純粋の本質社会的意思といえよう。ただ現代の結婚の総べて然かく純粋本質社会的でないことは前にも述べた通りであり、時には美術品の購買以上に計算的なこともある。しかしそうした結婚のあるという事実のために、結婚ににおける意思が総べて売買的だとかんがえることはいけない。実際には近松的な結婚が稀であるにせよ、むしろそうした本質社会的な貴重の上に目的的來雑物の混入したという事実を明認すべきであろう。
前掲書P.21~22

いささか難解。
かなり古色蒼然。そして、哲学的ともいえます。

しかし、戦後社会が始まってしばらくしても、婚家から女性が追い出されるといった抑圧から救済するためには、近代法が考える契約成立の要件を無視するような、大胆不敵な理論が必要だった、ということなのでしょう。それが、身分行為論から導きだされた、内縁準婚理論(内縁関係が成立している場合に、婚姻関係に準じた法的保護を与えるべきという理論)だったのです。

これを最高裁判所も採用します。
水野先生が紹介されていた最判昭和33年4月11日の判例は、一般には内縁の不当破棄に不法行為の成立と、婚姻費用の分担を定めた民法760条の準用を認めた判例として有名なものですが、事案は、結婚式を挙げて同居はしていたものの、婚姻届がなされていなかったというもので、まさに中川が想定した事実関係にピタリとはまる、典型的事案でした。

しかし、これは本質的矛盾をはらむものでした。
「法学教室」連載記事の中で、水野先生が述べているように、「婚姻意思を持たない事実婚カップルに婚姻法を準用して適用するという内縁準婚理論は、西欧法の基準では国家権力が自由の領域を侵す非常識なものと評価される」(水野前掲P.110)ものだからです。

そして、中川がそのヒューマニズムで、女性保護の解釈論を打ち出していたにもかかわらず、水野先生は、中川が打ち立てた身分行為論を否定にかかります。

その理論的構成は、次回お話ししたいと思います。

(この連載続く)

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