水野家族法学を読む(3)「民法典論争の実相ー単線的ではなかった法継受ー」

有斐閣「法学教室」2021年4月に掲載された、水野紀子「日本家族法を考える/第1回 日本家族法のルーツを考える」の関連論文をご紹介します。
foresight1974 2021.04.20
誰でも

おはようございます。foresight1974です。

新緑の爽やかな季節。。。と書きかけたところで、NHKの天気予報を眺めると、、、
25℃!?!? 今日はそんなに暑くなるんですか!?

***

【前記事】

複雑だった論争の対立構図

法学教室の第1回連載記事では、詳しく紹介がされていませんが、いわゆる民法典論争についての知識があると、水野先生の記事を理解するのに助けとなると思います。

一般的な教科書的説明は、次のようになります。

近代諸法典の編纂は、条約改正のための必要もあって、明治初期から着手された、フランスから招いた法学者のボアソナードらの助言のもとに、ヨーロッパ流の法体系を取り入れ、まず1880(明治13)年、これまでの新律綱領・改訂律例にかわって、刑法・治罪法を制定・公布した(1882年より施行)。ついで、1890(明治23)年には民法の一部が公布され、1893(明治26)年から実施することになった。しかし、その内容がフランス風で自由主義的であったため、日本古来の伝統たる家族制度を破壊するものとして、法曹界・政界の保守的な人々の間から強い反対がおこり、「民法出デヽ、忠孝滅ブ」と極言する者まで現れ、いわゆる民法典論争が白熱化した。このため民法実施は延期され、改めて断行派の梅謙次郎や反対派の穂積陳重らが協力して原案を修正し、新たに民法起草に取りかかり、1896(明治29)~1898(明治31)年に修正民法(明治民法)が公布された。これにより西洋流の一夫一婦制が確立され妻の地位は安定したものになった。しかし、一方では伝統的な家の制度を存続させ、戸主と長男の権限が大きく、夫権・親権の強い儒教的道徳観を反映した内容が盛り込まれ、男性に比べて女性の地位は低かった。
佐藤信=五味文彦=高埜利彦=鳥海靖編「詳説日本史」(山川出版社)P.360~361

水野先生も、連載第1回の記事で次のように述べています。

財産法領域では、西欧民法、とくにドイツ法とフランス法をあまり変更させずに輸入できたが、家族法では、これらの母法を大きく変形させた。旧民法第一草案はまだ母法の影響が強かったが、旧民法公布案へ変わる立法過程で、元老院審査会が行った人事編修正は、「我国慣例の実際に戻らざるを主とし、西洋宗教的な事は一切之を除き、無益の手続きを要するなどを省き、親子訴訟を為すが可き事を削除し、既に全く原案を削りたるもの五十余条にして、其他少しずつの修正は殆ど各条にあり。近頃実に果断なる修正にして、草案とは面目を全く一新したる有様なり」(読点筆者)と当時の時事新報が伝えている。いつの時代も国会議員の関心事となるのは、財産法より家族法のようである。そしてこのとき削られた「無益の手続き」の多くは、家庭内弱者を守るための公的介入の保障であった。
水野紀子「日本家族法を考える 第1回 日本家族法のルーツを考える」
法学教室2021年4月号P.88

同様の事情を、内田貴東京大学名誉教授も解説しています。

実際には、旧民法の家族法の部分(人事編と財産取得編中の相続に関する規定)は日本人委員の手で起草され、日本の家族制度に相当程度配慮した内容となっていた。決してフランス流の個人主義をそのまま持ち込んだものではなかったが、それでも日本固有の文化が十分顧慮されていないという反応が生じた。それが全体を覆う印象となって延期派に勢いを与えたのである。
内田貴「法学の誕生」(筑摩書房)P.154~155
【注】
日本法制史学の世界では、
現在の民法=現行民法
戦前の民法=明治民法
明治民法施行前の民法=旧民法
と整理しており、本連載もこれにならって記述しています。
foresight1974

つまり、ボアソナードとその弟子たちが起草した旧民法は、民法典論争が勃発する前に、相当の部分が修正されたにもかかわらず、保守派からさらなる攻撃を受けていた、というものなのです。

【注】
家族法領域について、ボアソナードは日本の慣習や風俗を尊重するために、日本人弟子たちの起草に委ねたものの、旧民法第一草案は、ボアソナードの影響を強く受けている、と指摘する研究者がいます。
本間修平「日本法制史」中央大学通信教育部P.284
内田貴「法学の誕生」(筑摩書房)P.150~151

従来、批判の急先鋒をつとめた穂積がドイツ法学派だったこともあり、民法典論争はフランス法学派VSドイツ法学派であると整理されていたこともあったようですが、現在の研究では、批判の論陣の中心を担ったのは、東京大学法学部・帝国大学法学科でイギリス法を学んだ卒業生で組織された「法学士会」(イギリス法学派)であったといわれています。

また、論争の構図も、単なる学派間の争いではない、と考えられています。

法典論争は、フランス法をモデルとした旧民法に対して日本古来の伝統的な規範との衝突を見る論者、自然法思想に否定的な立場のイギリス法学者、またドイツ法という当時最新の土光に影響を受けた学者など、多様な立場からの議論が噴出し、複雑な対立構図を描いていた。それが単なる学派の対立に収斂されるものではないことは、たとえばフランス本国にてフランス法を収めた富井政章が、貴族院にて旧民法施行の「延期」を主張する演説を行ったことにも象徴的に現れている。
出口雄一=神野潔=十川 陽一=山本 英貴「概説日本法制史」(弘文堂)P.429~430
※引用部分は、宇野文重尚絅大学現代文化学部准教授

結局、どこの国の学派が勝ったのか?

その後、いわゆる三博士(穂積陳重、富井政章、梅謙次郎)によって修正された案が、いわゆる明治民法として成立・施行されるわけですが、激越な論争を巻き起こしたにもかかわらず、その多くにフランス法の規定が継受されることになりました。

明治民法の起草方針は、あくまで旧民法(「既成法典」と呼ばれた)をベースとして「修正」を施すというものであり、旧民法の規定を引き継いだ部分も多い。同時に、当時の最先端ドイツ民法第一草案やザクセン民法の影響も大きい。
(中略)
かつては、旧民法はフランス法、明治民法はドイツ法に由来すると形式的に捉えられがちであったが、法典調査会でもしばしば引用されているように、起草委員は原案作成にあたってイタリア、オーストラリア、ベルギー、スイスなどさまざまな国の民法典や民法草案参照し、また大審院判決や行政指令・達も資料として示されている。西洋法継受という意味では、フランスかドイツかいう二者択一だったのではなく、穂積陳重が自信をもって述べているように、当時のヨーロッパ各地の民法典を参照して編まれた、まさに「比較法の所産」であった。
前掲書P.433~436

なぜ、旧民法の徹底的な破壊は行われなかったのか。
背景には1898年という「期限」がありました。
当時、明治政府は、欧州列強国から条約改正の条件として、日本国内に居住する外国人の私法上の権利が欧州と同様のレベルで保護されることを要求していたため、欧州と同水準の民法典編纂は国際公約となっていたのです。

留学から帰国後一〇年余り、啓蒙と教育に没頭していた陳重は、法典論争を経て、自らの手で日本民法を起草する役割を担うことになる。一八九三(明治二六)ねんに民法・商法の起草作業を担当する法典調査会が設置され、彼は、富井政章、梅謙次郎とともに民法の起草委員に選ばれたのである。このとき彼はひとつの葛藤を抱え込んだ。帰朝後の陳重を待っていた母国は、文字通りゼロから西洋法学を受け入れようとする新興国だったが、同時に、自身の長い歴史と文化に対するプライドに溢れた国だった。日本の法典論争の原因も、つきつめればそのプライドに求めることができる。そして、それゆえに、自国の歴史を重視する陳重の歴史法学も支持されたのである。ところが、陳重は、歴史法学を唱道する立場にありながら、日本の歴史とは切り離された西洋式の法典を自ら起草しなければならないという立場に置かれた。法典論争の際に陳重は、歴史法学の立場から旧民法・旧商法の施行延期を主張し、拙速を批判していた。しかし、いまや彼は、条約改正のために猛スピードで民法の起草を進めなければならなくなった。とりわけ、翌一八九四年に批准書が交換された日英通商航海条約により、新法典のデッドラインが一八九八年に設定されたため、駆け足で起草を進めながら審議に付すというスケジュールとなった。
内田貴「法学の誕生」(筑摩書房)P.172~173

後年、穂積陳重は、セントルイスでの万国学術会議において、「新日本民法典」というタイトルで講演し、明治民法について、「日本民法典は歴史法学及び比較法学の交差点に位置する」と述べ、「日本民法典は比較法学の果実」だと主張し、比較法学の新たな枠組みとして、中国法、ヒンズー法、イスラム法、ローマ法、ゲルマン法、スラブ法、英法の7つに分類し、法系や母法の概念分類を提唱し、法の進化は単線的ではないことを指摘しています。(前掲書P.188~192)

しかし、これまでの法制史研究から抜け落ちている視点があります。
国家体制の整備という視点です。

水野家族法と問題意識を通底する加藤雅信教授の指摘

2018年10月20日。名古屋大学のホームカミングデー開催に際して行われた、加藤雅信名古屋大学名誉教授の講演。
「明治150年:日本民法典の軌跡と、現在」と題された講演の前半部分は、名古屋大学法政論集282号に掲載されていますが、そこで重要な指摘がなされています。

背景にあったのは、明治憲法の制定です。
1886年、いわゆるお雇い外国人のロエスエルが、当時の内閣総理大臣伊藤博文に対し、フランス民法が民主的性格を有するのに対し、ドイツ民法は保守的性格を有しており、君主政体に適していると上申したことがきっかけで、日本ではフランス法の教育をうけた者に対してもドイツ留学の命令が発せられるようになり、明治政府の姿勢は、フランスからドイツへと大きく転換したことが指摘されています。

その結果として、加藤教授は、明治民法は既に指摘した研究結果にもかかわらず、フランス法からドイツ法への転換は「根本的」であったと主張しています。

加藤教授は、フランス法継受説を取る星野英一東京大学名誉教授(故人)を批判しつつ、次のように述べます。

日本民法制定のモデルとしてフランス法かドイツ法かという選択は、法律家がみる民法典に終始する狭い視野でのモデル法選択という次元の問題ではなく、日本の国制としての君主政体とも連動する政治的選択の一環としてなされたものであり、日本の民法学史において注目されがちな法典論争の開始以前の、ボアソナードが旧民法を起草中の明治一〇年代から始まっていた国制的な流れの一環であった。
加藤雅信「明治一五〇年:日本民法典の軌跡と、現在(上)」
名古屋大学法政論集282号P.152

加藤教授の指摘は、その後、戦前のドイツ法学隆盛や、個人主義よりも国家主義的な法システムの運用実態という事実と整合的であり、水野教授が「法学教室」連載第1回記事で指摘したように、家庭内弱者を守るための公的保障の多くが削られた経緯とも軌を一にするものといえます。

(この連載続く)

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