水野家族法学を読む(11)「身分行為論はなぜ問い直される必要があったのか(後編)」

中川理論の基底をなす思想は、現在の家族法学の欠陥そのものでもあった。
水野先生は、戦後民法学の通説的存在を、どう乗り越えようと考えているのか。
foresight1974 2021.06.15
誰でも

次の論文から読み解いていきたいと思います。

<参照文献>
水野紀子「中川理論ー身分法学の体系と身分行為論ーに関する一考察」(所収:「山畠正男・五十嵐清・藪重夫先生古稀記念『民法学と比較法学の諸相III』」(信山社))

水野先生も「法学教室」2021年6月号の連載記事において、上記論文の内容を一部紹介されていますが、当ニュースレターでは、水野先生の意図を明らかにするため、もう少し長く引用したいと思います。

水野先生は、中川理論の問題点を、我妻栄の著作を引用しつつ、次のように指摘しています。

我妻栄「親族法」のはしがきでは、戦後の家族法研究の隆盛について次のように振り返る記述がある。「かようなおびただしい量に上る研究成果を概観して、私には二つの物足りなさが感じられる。一つは、研究の成果に関連・統一ができていないことであり、一つは、理論的な構成が弱い事である・・・(中略)・・・多くの研究の中には、諸外国の立法の傾向を究明し、またはわが国における実情を明らかにするにとどまり、それについての理論的構成に及ばないものも少なくない。その結果、あるいは一貫性のない人情論に堕し、あるいは近視眼的な当面の解決の満足することになり易い。」と。この指摘は、日本の家族法学の傾向を概観したものとして、非常に鋭い。実際に財産法学において、「研究の成果に関連・統一」をつけて「理論的な構成」を明らかにするという、荒野を耕す作業を続けてきた我妻博士であってこその指摘であろう。そしてこの家族法学の欠陥は、中川博士の業績の欠陥でもあった。中川理論は、理論的構成をそれこそ過度に目指したものであったけれども、それは継受法の西欧近代法と格闘して産み出された理論ではなく、自己の頭脳の中から産み出された理論であった。ナポレオン法典が慣習法とローマ法の融合物であったように、近代民法がそれこそ有史以来の長年にわたる「法/不法のコード」の蓄積として初めて成立し得たものであったことを考えると、いかに中川博士であってもそれを一人の頭脳が全面的に代替できようはずはない。近代民法の理論と格闘せずに、自己の頭脳で生み出した理論は、そこに日本人の常識的感覚が自覚せずに忍び込んでしまうのではなかろうか。
前掲水野論文P.285~286

水野先生は、中川を全面的に否定しているのではなく、そのヒューマニズムに強く理解を示しつつも、日本特有の家族法の問題に、次のように述べます。

これらの家族法規定については、その制度趣旨を母法に遡って理解したうえで、日本法ではその前提が異なっているとすれば、日本の習俗に従ってあえて修正するという解釈はあり得るだろう。しかし中川理論は、婚姻意思の軽視にみられる婚姻制度への独特の態度にせよ、認知や嫡出推定という実親子関係の法的手段の制度趣旨に対する無理解にせよ、日本民法の規定を解釈するためにその規定の制度趣旨を理解したうえでの修正ではない。むしろ日本人の常識的感覚による直感的修正であるといったほうが近かったのではなかろうか。
前掲水野論文P.287
また中川博士は、「姉家督相続」「末子相続」なえどの相続慣行の実態調査を始めとする習俗の研究に熱心であった。それがたとえばそれによって家督相続を相対視するという「家」制度批判の意味を大きくもっていたとしても、それらの習俗の研究から中川博士の家族法解釈論が導かれた例はそれほど目立たない。解釈の基準から法規を放逐したときに、かわりに基準として現れるものは、実は、中川博士の「良識」ではなかったろうか。
同上

そして、唄孝一の指摘を引用した後、次のように述べます。

長所は中川博士の「良識」が、戦前当時の常識水準から卓越したまさに「良識」であって、かつその「良識」と解釈論が直結していたことであり、限界は、それゆえに法規に基づいた実定法学・法解釈学としては、弱いものであったことである。
前掲水野論文P.288

こうした弊害として、水野先生は、2つの事例を指摘しています。
1つは、非嫡出子の認知請求権の放棄に関する問題であり、婚外子保護と嫡出家族の保護との均衡をはかるという課題が問われるのみならず、人間の法的な親子関係を早期にいかに設定して子の養育と個人の尊厳を保護するかという実親子法の根本問題であるが、中川が「西欧法の実親子関係法に含まれる多様な配慮に相対的に無関心であった」と批判しています。
もう1つは、女と賭博に惑溺する夫を被告とする、50歳の妻からの離婚請求を裁量棄却した東京地判昭和30年5月6日の判例を批判するものであり、裁判官の非良識性を批判することに水野先生も共感は覚えるものの、「実定法学的観点からは、裁判官のそのような個人的な偏りゆえに妻の離婚請求権が封じられてしまう結果をもたらしうる民法770条2項の広範な裁量棄却権限の是非をこそ問うべきであろう」と批判しています。(前掲論文P.288~289)

つまり、中川理論(身分行為論)は、中川善之助という卓越してはいるものの一学者の「良識」に依存してしまっているために、中川の「良識の限界」がそのまま「理論の限界」となってしまう点を指摘しているのです。

水野先生は、次のように述べます。

実定法学の重要な作業のひとつは、我妻博士のいうように「研究の成果に関連・統一」をつけて「理論的な構成」を明らかにすること、いいかえれば、個々の問題や条文の解釈を体系の中で矛盾のないように位置付けて制度化していくことである。また、具体的な事件を妥当に解決できるように条文を解釈することと同時に、その条文の適用によりさえすれば具体的な事件が不当には解決されないような安定性を条文に持たせるように解釈すること、その両者の解釈が両立する解釈を目指す法解釈学を追求することも、実定法学の任務であろう。
前掲水野論文P.288

この実定法学の任務は、「人の良識」に依存しない、西欧近代法の「法の支配」の根幹をなすものです。

私(foresight1974)は、最近、離婚後共同親権問題について調べたり、発言したりすることが多いのですが、当事者の皆さんのお話しでよく出てくる言葉に、「ガチャ」という言葉があります。
子どもの時に皆さん遊んだことありますよね。ガチャガチャ。

事件を公正に裁くこと、法に従って、同種の事案には同種の解決が導かれるべきところなのに。。。裁判官や調査官の振れ幅が大きく、まさしく「ガチャ」なのだと。

この実態は、水野先生の長年の問題意識と共通すると思います。

白地規定の多さからくる解釈の幅の広さ、紛争時の裁判官・調査官らの裁量の大きさ、そして、実定法学としての家族法理論の弱さ、貧弱な司法インフラとブラックボックスな判断基準、判断の妥当性に関する実態調査の欠如。。。

中川理論の「良識」は、戦前の家制度に対する「気高い抵抗」であったものの、水野先生は、これを批判的に克服することを目指されているのです。

そして、家族法に基づく公的介入の保障という視座に基づく、実定法学として再出発を水野先生は、結びでこう主張しているのです。

「わが国の家族法学も、「砂上楼閣でない基礎工事」をめざすべきである。」

(この連載続く)

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