水野家族法学を読む(6)「"左"を忌避するポピュリズム」
蒸し暑い夜ですね。。。
当家でも除湿をかけています。
先週エアコン掃除しておいて良かった。
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さて、前回は法学教室2021年5月号の水野先生の連載記事の内容をダイジェストでご紹介しました。
そのうち、「1、忠孝一体から敗戦へ」の中で、水野先生は「戦後、家制度が廃止されてからも、「家敗れて氏あり」(宮沢俊義)と言われたように、氏を通じて家意識は残存した。夫婦別氏選択制に反対する動きの底流には、このような天皇大権イデオロギーと結びついたナショナリズムの残滓が感じられる。」(P.82)と書かれています。
この点について、最近のナショナリズム研究では異論のあるところです。
右でも左でもない普通の日本人たちの希薄な天皇観
上記の書籍は、日本の戦後思想について、学際的な研究実績で知られる歴史社会学者小熊英二が、教え子の学生との共著で、いわゆる「新しい歴史教科書をつくる会」の思想動向を分析した本です。
ここに出てくる、自称「普通の日本人」たちの姿は、2021年にtwitterに跋扈するネトウヨアカウントと非常に類似性があります。
アプリオリな「良識的」「普通の感覚」「健全なナショナリズム」「日本人の誇り」「伝統」を持ち、朝日新聞などの"サヨク勢力"を徹底的に排撃する。
そのくせ、参与観察者の学生(女性)に対し、「奇妙な人たちの集まりに見えますか?」(不安そうに)尋ねてくる。
講演者がリベラルな保守政治家であった宮沢喜一や、韓国、朝日新聞を揶揄した時に、受講者たちが苦笑する様子を、参与観察者の学生は、このように記しています。
「史の会」の参加者たちを観察して強く感じたのは、「価値観を共有している」ことを示すためにある特定の言葉が繰り返し用いられているということだ。「朝日」「北朝鮮」「サヨク」という言葉は、非常に心地よいフレーズとなって参加者の耳に響いている。
(中略)
逆に言えば、「弱気な日本」を笑うことくらいしか、会員全員に共通しているコードはないのではないか。
冷戦終結後しばらくして吹き荒れ始めたバックラッシュの嵐。
新しい歴史教科書をつくる会に先駆ける形で、攻撃の矛先が向けられたのが、1996年に答申された選択的夫婦別姓制度ですが、同年、宮崎哲弥と八木秀次の共著「夫婦別姓大論破!」(洋泉社)も刊行されています。
扶桑社から版権を引き上げていた小林よしのりが、小学館から「ゴーマニズム宣言」を出すのはその翌年です。
こうした、選択的夫婦別姓反対論の中核をなすネトウヨ思想には、戦前の国家主義にみられるような天皇観が非常に希薄であることが、本書では明らかにされています。
彼らの天皇への感情は、「皇太子夫妻の御子様誕生を素直に祝う、というレベルにすぎない」。確固とした天皇観を抱く「戦中派」の参加者が、会の中で孤立ぎみであることが描かれています。
小熊も、「天皇はもはや、現代の草の根保守運動のシンボルとしては、求心力が低下している」と分析しています。(本書P.191)
2016年、当時の明仁天皇が譲位の意向を示し、皇位継承についての特例法が議論する過程で、渡部昇一らが明仁天皇を激しく非難する見解を雑誌に発表し、明仁天皇が衝撃を受けたことがありました。
戦前であったならば、右翼から確実に襲撃されていたでしょう。
彼らにとって、天皇は自分たちのナショナリズムに都合の良い存在でありさえすれば良い、という不敬な打算が見えます。
"ネットの真実"でこしらえた国家像
小熊は、つくる会の有志団体である「史の会」をこう分析します。
客観的にみれば、全国平均の購読率が四パーセントほどである産経新聞を、半数以上の参加者が購読している「史の会」が、平均的な集団とはいいがたい。それにもかかわらず、彼等は「普通」を自称する。だがその「普通」がどんなものであるかは、彼等自身も明確に規定することができていないのだ。
そうした彼らが行うのは、自分たちが忌み嫌う「サヨク」や「官僚」や「朝日」を、非難することだけである。あたかも、否定的な他者を<普通でないもの>として排除するという消去法以外に、自分たちが「普通」であることを立証し、アイデンティティを保つ方法がないかのように。
そして、彼らの国家観を、参与観察者の学生はこう分析します。
目には見えない「国(くに)」に憧れを抱き、「伝統的な」と銘打たれた保守思想に安心感を覚え、日本人として誇りを持てる「物語のような」歴史を待ち望んでいる人たちが確かに存在する。しかしそれが本当に「今、生きている人たちのリアリティに基づいた」健全なナショナリズムなのだろうか。この保守運動を見ていると、彼らのリアルな世界、すなわち日常世界において夢や希望を持てないからこそ「こうであればよい」という幻想を抱いているような気がしてならない。彼らは、たくさんの本を読み、同じような考えの人々と交流しながら「理想の日本人像」を自分の中で形成する作業が楽しいのであって、今の世の中を本当の意味で変えていく力にはなれないのが本当のところではないだろうか。
ここでご注意いただきたいのは、参与観察者の学生は、"たくさんの本を読み"と書いていることです。
今、ネットで選択的夫婦別姓の反対論者のどれほどが、読書、という作業をしているでしょうか?
ネットで安易なフェイク情報を引用ツイートして、反論したと悦に入る。
対峙したほとんどの賛成派の皆さんは、彼らが全くといっていいほど文献情報を出さないことに、驚きと当惑を覚えたことはあったはずです。
ネトウヨ思想を支える知性は、ここまで劣化している。
上記の文章は、2000年代初頭です。
実は当時、つくる会は激烈な内部対立が生じていました。
その結果、現在では「新しい歴史教科書をつくる会」から対米協調の保守主義者らが離脱し、育鵬社から別の保守系歴史教科書を出版し、2つに分かれています。
本書では、小林よしのりや藤岡信勝ら、当時のつくる会上層部を、史の会の参加者たちが強く批判している様子も描かれています。(参与観察者の学生は、これを「手ごわい評論家」と表現している)
なぜ、そんなことが起きたか。
当時の自称普通の市民たちは、まだ本を読んでいたからです。
つまり、教養があった。
自分の教養に自信があったから、上層部の知識人たちに盲従することはなかったのです。
しかし、20年近くが経過し、百田尚樹ごときコピペ作家と相互フォローした程度で欣喜雀躍するネトウヨたち。
思想は確実に劣化していますが、その原因は20年前にある。
戦前の天皇大権イデオロギーは、八紘一宇をはじめ、自らの国家観を自己定義する言葉がありました。
一方で、90年代以降の「左を忌避するポピュリズム」であるネトウヨ思想の論理は、基本的に左へのカウンターに過ぎません。
そこにイデオロギーはない。
単純に、強大な保守政権政党の政策を現状追認することだけが、彼らが支持しうる政策なのです。
彼らにとって、現実主義とは時の保守政権政党の政策を無条件に受容することであり、本当の意味での現実主義(現実を直視し、問題点を漸進的に改良すること)を意味してはいないのです。
これらの点で、水野先生の「ナショナリズムの残滓」という表現は、当を得ていないと感じます。
そして、もう1点。
冒頭にご紹介した水野先生の文章では、「戦後、家制度が廃止されてからも、「家敗れて氏あり」(宮沢俊義)と言われたように、氏を通じて家意識は残存した。」と書かれていますが、この点も、現在の研究では、むしろ、戦後民法の改正過程に存在した、という見方もあります。
いわゆる婚姻家族思想の問題です。
(この連載続く)
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